なんという空しさ
- ふくち
- 4月24日
- 読了時間: 2分
空の空 空の空 いっさいは空である
この言葉を聖書のなかに見つけた時に、私は少し混乱しました。
「そら」じゃないですよ。「くう」です。
仏教用語が突如として現れたことに驚き、仏教的な思想がそこにあることに驚き、と同時に、聖書の中でも異色に感じたこの言葉のリズム感と美しさに強く惹かれたのです。
世は去り 世はきたる しかし地は永遠に変わらない
日はいで 日は没し その出た所に急ぎゆく
風は南にふき また転じて 北に向かい
めぐりにめぐって またそのめぐる所に帰る
旧約聖書「伝道の書」第一章より引用しました。
「日はのぼり、日は沈む」という文言に、屋根の上のバイオリン弾きを思い出す方もいらっしゃるかもしれませんね。
最近は「伝道者の書」や「コヘレトの言葉」として、訳も工夫を重ねられているようです。
なんという空しさ なんという空しさ すべては空しい
近しい人の老病死を心のなかでどのように抱えていけばよいか。
これは、心理職である私にとっても、自分自身の課題となると易しいものではありません。
心の中にぽっかりと空いてしまった空虚を抱えながら生きていくしかないことはわかっていても、その空虚に耐えることがつらく、苦しいこともあります。
心に在った存在が失われた後、その空いた穴を他のもので埋めることはできないのではないかと考えたりします。
その人(人だけではなく、いろいろなもの、存在したあらゆるもの)が存在したという証は、今や不在を確かめることでしか確かめられない。
だから、何度も何度も思い出して、今はもういないんだと噛みしめることをやめられないのです。
そして、最初は、鋭利で、触れるたびに指先を切り裂いて血を流していた穴の縁が、何度も何度も撫でるうちに丸みを帯び、にぶい痛みしか与えないようになる。
その日まで、何度も何度も、その人はもういないのだと、思い返すのが喪の作業ではないかと考えます。
そのうちに、気づくと、穴そのものが浅くなり、いつしか輪郭がぼやけ、そこに穴があったことさえ曖昧になっていくのかもしれません。
そんな曖昧になっていく穴もあれば、依然として自分の中に穿たれて、その強い空虚こそが私自身を決定づけるような、そんな穴もあることでしょう。
むなしくて、むなしくて、空を見上げて祈るしかないような日にも、日の光、月や星の光が心に届きますように。
希望の色の花を見ながら思いました。
